第16回個展『明明後日(みょうみょうごにち)』

16th solo exhibition “Two days after tomorrow”

会期:
2020年12月24日(木)〜2021年1月26日(火)

会場:
カフェエスキス
(札幌市中央区北1条西23丁目1-1)

from December 24, 2020 to January 26, 2021
Venue: CAFE ESQUISSE
(Sapporo, Hokkaido, JAPAN)


<会場設置文章>
「この作品を描いた作家の意図を知りたい」と思ったとき、こちらの文章もご参照ください。言葉が足りるか分かりませんが、解説を記します。

ただ、私が思うに、「作品を鑑賞する」ということは「作者の意図を当てる」という試験のようなものではありませんので、「作者の意図はともかく、自分にはこう思えたな」ということを大事にしていただければと思います。
同じものをみていても、そこからどのような情報を得るかということや、何を感じるかということは人それぞれ違いますし、「自分はこう考えた・感じた」ということは本人にしか体験し得ないことです。それを何か別の基準に合わせて無理に矯正することはないと思います。

作品を鑑賞するときでも、なんなら誰かと話をするときやニュースを見たときなど、どんなときでも同様かも知れません。「それが楽しくてはしゃいでしまう」「うっとりする」「全く興味わかない」「気にくわない。何か言ってやりたい」など、「何を見聞きした際に自分の中にどのような反応が生じた、かつ、どのような言動をとった」というところに、「自分は何者なのか」ということ、つまり自分の正体や、正体をつかむためのヒントが表れると思っています。

正体をつかむことは、私にはなかなか難儀に思えていて、「自分はだいたいこういう人間だろう」と思っていたことが、何かのきっかけに全く違うと分かったり、もっと根の深い理由があるようだと予感することもあります(それが最終の答えなのかは分かりません)。特に、上で例示したような「気にくわない。何か言ってやりたい」という感情が湧いたときは、「その対象にはこれこういう悪い点があるから」という理由づけをしてしまいがちですが、たいていの場合、劣等感を刺激されたことによってそうした感情が発生していて、それを正当化するために色々な事柄を引っ張ってきて理由づけしていたりします。かつ、「自分をそのように不快にさせるものを悪く評価する権利が自分にはある」と瞬発的に思ったりしているのです。落ち着いてから振り返ってみるとなかなか恥ずかしい話です。また、自分が信じる意見を正当化するためにも、同じようなことをしてしまいがちです。

もし私が自分以外の何かについて様々な評価をしたとして、それが果たして「対象を決定づける評価として影響を持ち得るか」というと、そんなこともないだろうと思うのです。私は権威のある立場にもなければ、大富豪でもありません。むしろそういった評価を含む私の「反応」は、私自身の主観的観測の結果として、私が世界をどのように見るかということを構築する一つの要素になっていくということだと思っています。

私は、世界をどのように見ていたのだったろうか?
あなたは、世界をどう見ているのでしたっけ?
ということが、何かを評価し、かつ発言するときに常に試される気がしています。

今回の個展では白絵(しろえ)を真似て、白一色で描く作品を展示しています。平安時代の白綾屏風に端を発する白絵は、本来は白い下地や白木に白で松竹鶴亀などが描かれますが、それらの白い風景は、「色があることが前提でものを識別」している私には新鮮なものでした。視覚的に色を識別するということ以外でも、「色眼鏡」という言葉もあるように、多くのもの・人・できごとを、自らの経験や知識の積み重ねで持つようになった「イメージ」で識別しているように思います。「美味しそう」「正しそう」「ちゃんとしてそう」「専門家を名乗っているけど胡散臭い」などなど。

それらは、実態と合致していることもあれば、はずれていることもままあります。なんなら自分が間違った思い込みをして、それを常識のように吹聴してしまう、といったこともあります。一度染みついてしまったイメージを払拭し新しいイメージへ修正することは、たいていなかなか難儀に感じます。また、「分かった」「知っている」という体験とその状態はとても心地よいので、どこか途中までの部分を「分かった・知ったと」いう段階で満足してしまい、それ以上の正確な情報を追求しなくなることもままあるように思えます。

世の中のすべてを知ることは無理ですし、自分以外のものになることはできないので、自分が観測した範囲のことをもって判断し行動するしかないのですが、私が見ているもの・人・できごとが「自分のなかに蓄積したイメージによる結果」であって、「事実そのもの」でないなら、私が「実在しているもの・人・できごとだと認識しているもの」は実際何なのでしょう(実際、「事実そのもの」とはなんでしょうか)。私のなかでそれらが現時点での事実だとして、それをもって他人に何をどう話したものでしょう。

その、現時点の私が見ている「世界へのイメージ」がもしいったん白紙に戻るとしたら、世界をどのように眺めるのかと思いますし、そのあとには、周囲のものに対して、どのように新しいイメージを持つことでしょう。

自分以外のすべてのものは鏡や銀幕のようなものかもしれません。「何かをみるときにどう見ているか」というところに、「現時点で自分は、何かに対してどのようなイメージを持つ人間なのだ」ということが映るのかもしれません。それとも、鏡や銀幕というのは、私自身でしょうか。

布を被った幽霊は、そのように自分の正体を掴み得ずうろうろしている生き物の姿です。手には枯れ尾花を持ち、狼が付き添っています(私は狼が付き添っていることに疑問がないのですが、実はその理由は明確には突き止めていません)。

その布を被った幽霊は、あやふやであり、不完全でもあるものですが、それでも人生の時間の経過が待ってくれる訳ではないので、次に進まなくてはなりません。そこで、その前途を予め祝う意味を込めて、松が生え、鳳凰が飛ぶ、目出度さのある風景『景勝幻視』を描きました。布を被った幽霊と狼たちがこれからその世界を歩くにあたり、行き先に喜びと幸いがありますように。

そして、もしかしたらその中で、いつか、布を被った幽霊がその布をまとわずにいられる状態が来るかも知れません。それはどのようなことなのだろう、その時、どんな姿をしているのだろうと夢想しています。

2020年12月
高橋弘子

余談ですが、2015年に画廊喫茶チャオで開催した個展では、個展の題名を『Subjective observation』としていました。「主観的観測」を直訳した題名になりますが、展覧会案内のキャッチコピーとして「世の中の出来事は全て、その人にとって、主観的な観測でしかあり得ない」という文言を使っており、それを思うと、当時から考えていることは変わっていないかも知れません。