第15回個展『うそつき』


15th Solo exhibition “Liar”

会期:
2019年11月1日(金)~11月14日(木)

会場:
Bar & Gallery 卍
(札幌)

from Nov. 1 to Nov. 14 2019
Venue: Bar & Gallery MANJI
(Sapporo, Hokkaido, JAPAN)


2019年8月にBar&gallery卍で開催されたグループ展『小匣展』に出展した際、古道具屋で額縁を購入したのですが、その額には印刷の聖母子像が入っていました。私自身はおおむね仏教徒なのですが、20年ほど前に書いた詩でマリア様に登場してもらったことを思い出しました。「うそつき」という詩です。
 詩「うそつき」の主人公は自分の罪を気にやんで、その処罰として「マリア様のためなら矢に刺されたり鞭で打たれてもよい」ということを語っています。マリア様はその動機を見抜き、主人公に対して「もう自分に復讐しなくてよい」と伝えます。「うそつき」の主人公は自分が犯した罪が誰に対しての罪であったのか把握しているようですし、自分は処罰を受けるべきだと考えているようです。でも不思議なことに、おそらく本人の信仰対象ではないマリア様相手に、自分の罰について助けを求めています。罪を犯した相手に謝罪したり処罰を求めてはいません。でも、自分のうちにある罪悪感を片づけてしまいたいようです。
 私自身、いくつもの局面で謝らずに過ごしたことがあります。そのなかには、自分が悪かったことも、自分だけが悪かった訳ではないことも、自分は悪くなかったことも、そうした分類がはっきり判断できずにやり過ごしてしまったことも含まれています。それらの体験や記憶は、なんだかずっと私のあとについてくるし、私はそれを連れて歩いてしまいますし、それらの体験を自分の中の定位置に置いて、何度となく思い返したりしています。「自分が悪い、あるいは悪かったのかもしれない」という認識とともに、「罪を犯した事実がなければよいのに」「悪かったのは自分ではないという判定が下されればよいのに」という思いがついてきています。一方で、そのように判定されれば、それで満足で幸せになれるかというと、そうでもない気がしています。
 詩「うそつき」を絵に起こしながら考え至ったのは、「うそつき」の主人公は許され方を知らないのではないか、ということです。「うそつき」の主人公は、詩のなかでは結局処罰を受けません。マリア様の懐で眠ったあと、この主人公はどのように目を覚ますのだろうかと思います。


『うそつき』

マリア様はきっとそんなこと
お望みにはならないだろうけど
ぼく、マリア様のためになら
死んだっていいよう
千万回 ムチ打たれながら
億本の矢に刺さって
死んでもいいよう

そうしたらマリア様が
ぼくの気持ちを見透かしたみたいに
「それ以上、自分に
復讐しなくてもいいんじゃない?」って
ぼくはそこで妄想からはっと目が覚めた
そうだね
ごめんなさい
マリア様のせいにして
だってぼくは悪い子
頭の上を飛び交うお父さんとお母さんの声
自然消滅させた友情
学校にもぼくはたくさん嘘をついた
取り返しがつかないくらい
そしてマヒしていった いつか
嘘が当たり前のように
ぼくの口からなめらかに出ていくようになって
ぼく ごめんなさい
もう何も喋らないから
許して下さい
「もういいのよ自分を罰しなくても」
ぼくはムチで打たれ
棒で叩かれたい
「嘘をつくのがそんなに悪いことだと思うくらい
あなたの本当の心は素直なのね」
でもぼくは曲がってしまった
うそつきになった
いやだった
ぼくは自分が嫌いになった
もうこのまま
何もかもやめて
マリア様のために死にたい

マリア様の強い力が
ぼくを丸ごと包み込んだ
「もう自分に復讐しなくてもいいのよ」
ぼくは抗おうにも
マリア様の強い力は
ぼくを抱きとめた
ぼくは動けなくなったので、
マリア様も嘘をついたことが
あるのかなあ、と思いながら
深い深い眠りに入るしかなかった
        高橋弘子
(2004年)

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